フウセントウワタ

随分エントリに時間が空いてしまったが、何事も無かったかのように。尾辻克彦だったかのエッセイで、同人誌の刊行がもともと月刊の筈が季刊になり年刊となり、さらにはそれ以上に刊行に時間が空いて、気が付いたらまるで対数のような刊行頻度になって、それを対数の放物線になぞらえて「放物刊」と書いていたのを思い出した。

書きたくなったら書けばよいし寝たくなったら寝たらよい。人生を横道に逸れたくなったら無責任でもいいから放り出してどこかに行けばいい。何をするにも誰も何者も自分を引き留めていない、それだけのことを気づくのに相当時間が掛かってしまった。

ゆっくり気づいて行けばいい。お釈迦さんだって過去に鹿だったこともあるんだし。ましてや凡夫の身。鈍行でしか見えないものもあるんだし、そうして楽しんだらいいんだと。

この間の神保町古書祭りでは思いのほか人が出て靖国通りを歩くだけでしんどかったが、一冊だけ購入したのは箕輪顕量「仏教瞑想論」(2008年、春秋社)だ。これはレファレンスとして地元の図書館で何度か借りた本。安かったので手元に置こうと購入。仏教の瞑想を概観したものだ。いま流行りのマインドフルネスも、元はヴィパッサナでありそれがどういう位置づけの瞑想なのかを知ることは重要だと思う。天台でいうところの止観とは止がサマタ、観がヴィパッサナのことだ。

サマタは心を一点に集中し動かさないこと、ヴィパッサナは心を放っておいてその動きを逐一認識すること。この認識、つまりいま何かを思ったなどといちいち自分にするツッコミをサティというと。

天台はそれをメソッドとして体系づけた。その実践はいま比叡山で脈々と受けつがれているといわれるが、鎌倉時代に天台から出た禅はまさしくサマタ瞑想の代表的なものだろう。しかし例えば曹洞禅もサマタだけなのか。臨済は?などと疑問が出てくる。こういう疑問が生まれるというのはいい。つまらん日常も少しは楽しくなる、かな。

写真は不思議な形の植物。調べてみるとフウセントウワタと言うらしい。漢字で書けば風船唐綿。実は緑の風船に毛が生えたようなものがひと茎にいくつも成る。熟れるとこの風船が割れて中の種が飛び出す。見ると周囲に飛んだ種が小さな芽を出している。戦略通りじゃないか。何だかなるようになっているのが不思議ですこし嬉しくなる。

フウセントウワタとはガガイモ科の植物の1種。学名はGomphocarpus physocarpus。別名はフウセンダマノキ。 APG IIIではキョウチクトウ科に属する。 南アフリカ原産の多年草であるが、日本では春まき一年草として扱う。 (ウィキペディア)

調べると茎を折ると出てくる乳液状の液は毒性があり眼に入ると炎症を起こすらしい。しかしこの植物は何故こんな形を選び毒を持つことを願ったのだろうかと。

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