趙州狗子

趙州が問われて、全てのものには仏性があるというが、では犬にもあるのかと。趙州曰く「無」と。(無門関 第一則)


最近、この辺りでこれまで続けてきた仕事を一度整理してみたいと思うようになった。ここ何年かの自分が抱える難病のこともあるし、家族の状況が変わってきたこともある。それには今の仕事というか正確には組織を離れることが重要だと思うようになってきた。

こういうことは慎重に決めなければならない、先々の生活が成り立つのかどうかなど熟慮して決めるべきである、そう思うのが普通だと思うが、それほどの時間もかけずなかば何かの流れに身を任せるように組織にはこの意思を既に話している。だがこれはむしろ何ものかに話させられていると言ったほうが感覚には合う。陳腐にも運命とでも言ったらよいのか。

多分、大枠は予めそういうことになっているのだろうと思う。それは、この身が両親のもとに宿った時からの筋書きなのだろう。そういうことがすんなりと理解できるのが、普段は優柔不断な自分には驚きでもある。こういう時の決断は存外、そんなものなのだ。

あとはタイミングだ。年内なのか年明けなのか、あるいは期の変わる3月末か。いや、決めたのならばあまり長居はしたくない。年末がいいところかと。

これからは多少経験のある貿易関係や翻訳などの仕事を選んでやっていけばいい。嫌な仕事なら来なくても一向に構わない。むしろ全部断るくらいのスタンスでいい。それよりも、まずは行きたかった吉野辺り、あるいは熊野古道でも歩いてみたいと思う。


冒頭の犬の仏性、趙州の言うこの無は同時に有であり、さらには有り無しを超えた何ものかだ。それを無と名付けた途端、その本質から離れてしまう。追いかければ手のひらからすり抜けるそのもの。そこにはそもそも問いも何もなくただ縹渺とした無としか言いようのない充実が広がっている。

 

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