ネパールの説法

最近はYOU TUBEで古い映像ばかりを見ているが、昨日は早く寝ようと床に入ったもののそこから懐かしいゴダイゴの映像を見始めて、結局寝たのは日付が変わってからになった。

なかでも1980年に行われたシルクロードツアーにおけるネパールでの6万人コンサートの映像は3分にも満たないものだが繰り返し何度も観てしまった。映像はネパール語で歌われる「ビューティフルネーム」の一部だったが、見ているうちに経典に描写される釈迦の説法とはまさしくこんな感じではなかったのかと思い始めたからだ。

もちろん史実を想像している訳ではなく、後に編まれことになる経典にしばしば登場するフィクションとしての説法の場面だ。そのきらびやかなイメージとはつまりこうだ。人、動物を始めとし諸菩薩、天部、龍、夜叉、阿修羅、迦楼羅などが、仏陀の口からいままさにこぼれ出ようとする美しい貴石のような、まばゆく光る露の如き言葉を固唾を飲んで待っている、空からは散華が降りしきり美しい鳥の鳴き声もどこからか聴えてくる、そんな風情がこの映像に潜んでいる気がした。

遠く丘の上までびっしりと埋め尽くされた人波。ガンジス川の真砂のような人々の粒。そのひと粒ひと粒が一体これから何事が起こるのだろうかと期待に胸を膨らませている。
見渡せば人の他にはただぽっかりと空があるばかりだ。経典では説法の後に多くの人々、いや人以外の者たちもみな一斉に菩提心を起こすシーンで締めくくられる。あぁ、これはまるでこれから仏陀が説法を始める、その前の余興のようなものではないのか。

動画を再生しながらいつの間にか眠っていた。
夢のなかで姿は見えないが遠く迦陵頻伽の鳴く声が聴こえた。

そうだ、自分はこの聴衆の一人として遠い過去、確かにこの説法を聞いたことがある。
そしていまもなおその説法は続いている気もする。なるほど、そういう訳だったのか。

夢うつつながらにそう思うと再び眠りに落ちてしまった。
こういう夢はそうは見ない。いつも取り留めのない、芒とした不安を断片的な映像にしたようなものばかりで閉口する。

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