太田姫稲荷、露姫そして勝五郎

池波正太郎の「剣客商売」をひと頃通読していて通勤電車のよい時間つぶしになったのだが、その細部はよく覚えていないものの、毛まんじゅうとか根深汁とかどうでもいいことばかりが頭に残っている。毛まんじゅうとは何かについては少々書くのがはばかられるが(笑。

そのなかで主人公の秋山大治郎が太田姫稲荷の前を通りかけたとき曲者にいきなり斬りつけられるシーンがあって、あぁ、あの場所で、などと思いを馳せたのだが、調べてみると太田姫稲荷はいまの駿河台下にはなく、以前は聖橋のたもとにあったと。しかしそれも元は江戸城の鬼門を守る位置にあったが、まだ家康が開幕したばかりの1606年に江戸城改築のためにこの聖橋横に遷座されたという経緯があるらしい。現在の駿河台下への遷座は国鉄の総武線開設のために昭和6年に行われたとある。昭和6年といえば今年で87年、まだ最近のことだ。(写真は聖橋たもとの太田姫稲荷元宮の椋の木)

太田姫稲荷は以前は一口神社と言った。一口はひとくちではなく「いもあらい」と読む。このいもあらいの語源についてはいみはらい=忌み払いから来たなど諸説あるようだが、いもというのは疱瘡、つまり天然痘のことで江戸時代には死因の高い比率を占めていた。この、いも=疱瘡を洗う、払うということからいもあらいと呼ばれるようになったという。特に麻疹と並んで幼児の疱瘡による死亡率は高かったと。このため、疱瘡平癒の祈願というのは重要だったようで、各地にこの一口の名が残っているのはその影響の大きさを物語っている。六本木の芋洗坂も当て字であって、もとはこのいもあらいに由来しているのではないだろうか。おそらく付近に疱瘡神が祀られていたに違いない。

この一口神社は江戸城築城に寄与した太田道灌の娘が疱瘡に罹り、京都から一口神社を勧請して祈願したところ平癒したということから太田姫稲荷の名称の由来となっている。

では何故一口と書いていもあらいと読むのか、これは京都のもともとの地名が三方が巨椋池に囲まれて出口が一つということから云々と言われているが、私は一口のイメージからどうしても蛇神を連想してしまう。しかし一口が蛇信仰と関連があるという話は聞かない。

ところで、この疱瘡から連想されるのは松平露だ。露は江戸後期、鳥取藩支藩の藩主であった松平冠山の娘で、疱瘡により6歳で夭逝した。その際に父や家族、乳母宛にしたためた遺書が残っている。数えで6歳ということはいまで言えば5歳の幼さで遺書とは驚くが、父に宛てたものではあまり深酒はなさらないようという内容を可愛い字で認めたもので涙を誘う。

おいとたか
らこしゆあるな
つゆがおねがい申ます
めてたくかしく
おとうさま

まつだいらつゆ

(お願いだからご酒を召し上がらないでください。露がお願い申します。おとうさま – 国立公文書館デジタルライブラリより)

娘の死を深く悲しんだ冠山はこの遺書をよみ酒をやめたというが、一方、同じ時代に多摩郡中野村の勝五郎という少年が前世の記憶を持っていることが話題となり、娘を亡くし悲嘆に暮れた冠山の目に止まって本人に会いに行ったという。多摩郡中野村はいまの八王子。前世は日野の程窪村(今の程久保)の、これもやはり疱瘡で死んだ子供の生まれ変わりで両親や家の造作などの記憶があったという。冠山は同じ疱瘡で亡くなった娘の再生をこの話に投影したに違いない。

これに注目したのが国学者の平田篤胤で、勝五郎本人に会いに行き、その聞き書きを「再生記聞」という書物に纏めた。これは国会図書館デジタル化資料で閲覧可能だ。

ちなみに、勝五郎の生まれ変わり譚のようにエビデンスのしっかりとした再生事例は世界的に見ても珍しいという。またこの話は小泉八雲が小説にしているようだ。

これについては下記のサイトに纏まっている。コンテンツが豊富で非常に興味深い。
http://umarekawari.org 勝五郎生まれ変わり物語

疱瘡をめぐっての物語。太田姫稲荷から露姫、そして勝五郎へと繋がる不思議な糸車。
ふと見上げた椋の木の先にも実はこういう世界が広がっているのかと感慨深い。

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