夢でよく見る世界というものがある。現実にはないのだが夢のなかでは当たり前の設定になっており、睡眠中にああ、またここへ来たかというような妙な納得感まであることが多い。
幾分かは現実とリンクしている。登場人物も現実世界の人が大半だ。だが、現実世界では居ないが夢のなかではよく知っている人物というのもある。また会いましたねと邂逅を懐かしむことすらある。
現実に存在する登場人物も少しづつ違っている。現実では余り馬が合わずよそよそしく振舞っている人も夢では親しく話したりしている。そんな彼らを仔細に見ると現実の彼ら自身ではなく微妙に別の他人であることが分かることもある。
思うに、おそらく人というものは単純なパーソナリティではなく本当は重層的な存在であって、それは皮相的にある一面からはとても把握しきれない複雑なものなのだろうと思う。自分に見えている彼には実は別の一面もあり、これはよく言われることとしても、さらに空間のみならず時間的にも複数の彼が同時に重なりあっているのだろうと。
そう考えると、夢に登場する彼がいっときふと他人の顔を覗かせるのも納得できる。むしろそれは彼の前世と言っても良いかもしれない。前世とは何も過去のことばかりではなく、いまそこに居る別の彼でもある。
そんなひとりの彼と映画館に来ている。隣の劇場のスクリーンが見え隠れしているのでシネコンだろうか。
私は隣の映画が視界に入ってしまい気が散るから境のドアを閉めて欲しいと支配人に言う。
妙な書き割りのような、いや映画館の舞台とはまさしく書き割りのようなものだが、曰く言い難い覚束ない光のスクリーンに懐かしいような昔の風景がカタカタと映る。しばらく観ていると画面に映る女性は若い頃の自分の母親のようだった。それが分かった途端、叫びだしそうになり狼狽する。思わず席から立ち上がる。隣席に座っている明らかに現実の彼とは違う彼が自分をなだめ介抱する。すると、その彼はいつの間にか夢のなかだけの知己たる若い女性に変わっており、こう言う。「まだ早かったかも知れないわね。」
あとは取り留めのない、まるで記号の羅列のような夢の続きだ。
ただひとつ気になるのは、その彼から自分がどのように見えていたかだ。
自分もまた重層的な存在であれば、それはおそらく自分が思っている自分ではないのだろうと思うし、現実世界でもことによると他人に映る自分が自分である保証は何もない。